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受賞作品:『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』

著者: 金原 ひとみ (かねはら ひとみ) さん
作家として売り出したい若い女と出版社の編集者の関係がねじれて、若い女が編集者に性的な搾取を受けてきたこと、中年男の変態ぶりを告発する文章をSNSに投稿。周辺の騒ぎをよそに編集者は対応することなく、逆に若い女の告発文に非難が集まる傾向も見える。これが発端だが、実は、その編集者が担当していた社会正義派の女性作家が、若い女から相談を受け、若い女の方にも落ち度があったことを認める文面に書き換えさせていたことが明かされる。
この女性作家は既婚で、一女の母親でありながら一五歳下の若い男性会社員をパートナーにしている。彼は、ネットスラングの飛び交う世界では性愛のハラスメントとその逆転が紙一重で錯綜している状態を見渡し、みなそのとき限りのそれぞれの立場と達観している。彼のその「相対主義」を女性作家は好ましく感じている間柄である(147頁)。そして実際、この長編小説には二人を取り巻く人々の口から様ざまな口調で情報の破片が巻き散らされる。
女性作家の正義感は立ち向かう相手を求めずにはいられない。習い覚えたばかりのムエタイ(タイ式キックボクシング)で、幼児虐待者に挑んで無惨な最期を迎える。が、それが美談となって広がり、彼女の遺作は新たな読者を獲得もする。が、パートナーだった男性が突発性難聴に見舞われながら葬儀を仕切ったように、遺された者たちへの事件の波紋は一様でない。
ちなみに芥川龍之介「藪の中」(一九二二)は、丹波の山奥で強盗にまんまと騙され、藪の中に誘い込まれ、妻を凌辱された武士の不甲斐なさをなじる説話(『今昔物語集』〔巻二九「悪行」第二三話〕)を一種の裁判小説に仕立てなおし、検非違使に捕えられた強盗・事後、清水寺に逃れた妻・巫女の口を借りた武士の死霊の三者それぞれが自身の有利になるように事件の顛末を語り、慣用句「真相は藪の中」を生み出した。その相対主義の絵解きとは異なり、「藪の中」のタイトルをローマ字書きにした本書の読者は、人それぞれの多様性もその関係も世代とメディアを超えて価値観の輪郭さえ溶け出し、変転とめどない今日の日本の生き辛さの「真相」に立ち会わされることだろう。卓抜な構成に拍手。
芥川龍之介の『藪の中』を連想させるタイトルの本書は、男女四人ずつ計八人のモノローグで構成されている。語り手は大手出版社勤務の五十代の男性編集者、離婚できないまま年下の恋人と暮らす女性作家、引きこもりのその娘、作家志望だった若い女性など。過去の性的搾取をネットで告発されたことで男性編集者は大きなダメージを受け、動揺は周囲にも及ぶ。作者は被害者の痛みを掘り下げるだけでなく、加害者の言い分を書くことも忘れない。それにより見え方が変わり、真相はまさに「藪の中」となる。十五歳下の学生を恋人にした女性作家の場合は性的搾取にならないのかという問いも作者は突きつける。
編集者の部下は痴態をネットにさらされた。リアルとネットの双方で無事に生き抜くことは今や至難の業に思えてくる。寒々とした時代の一端を作者は力強い筆致でぐいぐい描く。五百ページをこえる小説は着地点が読めず、最後まで気を抜けない。息苦しいほどの緊張が続くが、結末にひとすじの光が待っている。
受賞作「YABUNONAKA—ヤブノナカ」は、一人の男の性搾取、そしてその告発をめぐる小説です。視点人物は八人。それぞれがそれぞれの価値観で性搾取について考え、熾烈にぶつかりあいます。皆がてんでバラバラの方向を見つめているこのしっちゃかめっちゃかな現在の縮図を完成させるために、そして今を生きる全ての人が、正しさと間違い、清廉と邪悪、理想と現実のグラデーションの中にいることを座標で示すために、八人が必要でした。
読んだ人が、自分はどこにいるのか、“なぜ”そこにいるのか考えられる、地図のような小説を書きたいという思いから始まった小説です。この本が、答えの出ない問いを嵐のような時代の変化の中で考え続けるための、足場を支えるささやかな力になれば幸いです。そしてこの栄誉ある賞をいただけたことは、きっと私のこれからの執筆の支えになってくれるはずです。
選考委員の皆様、宇治市の関係者の皆様、本当にありがとうございました。
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。2020年『アタラクシア』で渡辺淳一文学賞受賞。2021年『アンソーシャルディスタンス』で谷崎潤一郎賞受賞。2022年『ミーツ・ザ・ワールド』で柴田錬三郎賞を受賞。2025年『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』で毎日出版文化賞を受賞。著書に『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『ナチュラルボーンチキン』等がある。
| 開催回 | 受賞作品 | 発行者 | 受賞者 |
|---|---|---|---|
| 第1回 | 『式子内親王伝 -面影びとは法然-』 |
朝日新聞社 | 石丸 晶子 |
| 第2回 | 『きらきらひかる』 | 新潮社 | 江國 香織 |
| 第3回 | 『十六夜橋』 | 径書房 | 石牟礼 道子 |
| 第4回 | 『淀川にちかい町から』 | 講談社 | 岩阪 恵子 |
| 第5回 | 『アムリタ』 | ベネッセコーポレーション | 吉本 ばなな |
| 第6回 | 『夫の始末』 | 講談社 | 田中 澄江 |
| 第7回 | 『蟹女』 | 文藝春秋 | 村田 喜代子 |
| 第8回 | 『齋藤史全歌集』 | 大和書房 | 齋藤 史 |
| 第9回 | 『神様』 | 中央公論新社 | 川上 弘美 |
| 第10回 | 『薬子の京』 | 講談社 | 三枝 和子 |
| 第11回 | 『釋迢空ノート』 | 岩波書店 | 富岡 多惠子 |
| 第12回 | 『歩く』 | 青磁社 | 河野 裕子 |
| 第13回 | 『浦安うた日記』 | 作品社 | 大庭 みな子 |
| 第14回 | 『愛する源氏物語』 | 文藝春秋 | 俵 万智 |
| 第15回 | 『ナラ・レポート』 | 文藝春秋 | 津島 佑子 |
| 第16回 | 『沼地のある森を抜けて』 | 新潮社 | 梨木 香歩 |
| 第17回 | 『歌説話の世界』 | 講談社 | 馬場 あき子 |
| 第18回 | 『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』 | 講談社 | 伊藤 比呂美 |
| 第19回 | 『女神記』 | 角川書店 | 桐野 夏生 |
| 第20回 | 『ヘヴン』 | 講談社 | 川上 未映子 |
| 第21回 | 『尼僧とキューピッドの弓』 | 講談社 | 多和田 葉子 |
| 第22回 | 『評伝 野上彌生子 -迷路を抜けて森へ』 |
新潮社 | 岩橋 邦枝 |
| 第23回 | 『東京プリズン』 | 河出書房新社 | 赤坂 真理 |
| 第24回 | 『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』 |
平凡社 | 森まゆみ |
| 第25回 | 『晩鐘』 | 文藝春秋 | 佐藤 愛子 |
| 第26回 | 『戯れ言の自由』 | 思潮社 | 平田 俊子 |
| 第27回 | 『浮遊霊ブラジル』 | 文藝春秋 | 津村 記久子 |
| 第28回 | 『えぴすとれー』 | 本阿弥書店 | 水原 紫苑 |
| 第29回 | 『パンと野いちご 戦火のセルビア、食物の記憶 | 勁草書房 | 山崎 佳代子 |
| 第30回 | 『夢見る帝国図書館』 | 文藝春秋 | 中島 京子 |
| 第31回 | 『組曲 わすれこうじ』 | 新潮社 | 黒田 夏子 |
| 第32回 | 『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』 | イースト・プレス | 奈倉 有里 |
| 第33回 | 『イコ トラベリング 1948ー』 | 角川書店 | 角野 栄子 |
| 第34回 | 『風配図 WIND ROSE』 | 河出書房新社 | 皆川 博子 |
| 第35回 | 『大使とその妻』 | 新潮社 | 水村 美苗 |